正論の使い方
先日、電車で忘れ物した。
運がよく終点まで行ってそこで忘れてしまったので、すぐに駅に戻ったのだが忘れ物はなかった。
貴重品は入っていなかったものの、好きな歌手のはじめてライブで行ったタオルとか、お気に入りの服が入っているからそれはそれでショックだった。
そして今朝も忘れ物の窓口に電話した。
中年の愛想の無いおじさんがまた対応してくれた。
きっとこの人も色々なクレームを受けて神経をすり減らしているのだろう。
だからこそ、対応がすごく軽薄な印象だった。
いや、そんなことはどうでもいい。
「お客様が見つけた忘れ物が見つかりました!」
とその一言があれば、どんなに塩対応でも僕は全てを許すだろう。
しかし、その期待を裏切るがごとく忘れ物は無かった。
「終点ですぐ戻ったんでけどねぇ・・・」
と弱音を吐くように言った言葉を遮るように
「しかし、今のところ届いてはいないようですねぇ」
なんとも心もとない答えが返ってきた。
別に同情なんてしてもらいたかねえのよ。
「また電話します。」
と時が経つのを待つことにした。
僕はこのことを母親に愚痴った。
そしたらなぜかブイブイ言われた。
「そんなの忘れた自分が悪い。」
「いつまでもグチグチ言ったってしょうがないでしょ。」
「そういうのはあきらめなさい。」
ポジティブ系自己啓発本に啓発されたのかのように
シャワー強め で 僕に言葉を浴びせてきた。
確かに、正論かも知れない。
いつまでもグチグチ言ったって忘れ物が届かないという事は知っている。
網棚という数々の荷物を食い物にしてきたところに安易においたことも
自分が悪いということは分かっている。
でも、そんな言葉をかける必要ってあるのか?
母親が聖人君子でないことはわかっている。
そして自分が母親に対して 忘れた事のショックをいやしてもらおうとも思ってない。
それにしてもだ。
ぼくは余計にイライラしてしまった。
終点ですぐに気付いたからあると思ってたはずのものが無くそれがお気に入りのもので自分がしてしまった失態に深く傷つき自分を責めてしまっている状態の時に
それを執拗に責める必要ってのはあるのか?
もし、それを母親というボジションからして
教え導くという信念のもとに放った言葉なら
俺はまったく導かれてなどいない。
確かに、正論は説得力がある。
しかし、使い方を誤れば誰かを傷つけたりもする道具である。
そしてその使い方を若いうちに身に着けておかなければ
子どものこころはしかり
大切な人のこころ
離れていってしまうきっかけになろうだろう。